実家へ帰る
母からの電話で実家に帰ることになった。
それからは本当に記憶がほとんどない。
どうやって毎日を過ごしていたのか‥。
部屋からほとんど出ず、毎日暗い映画を観て死にたいと思っていた。
ただ覚えているのは、周りからどう思われているのか、情けない‥。
そういう感情だけがはっきりとしていた。
そんな生活も続けば、両親はイライラしただろうし、今思えば本当に申し訳ないと思うけれど、いちばん酷かったし、つらい時期だったから、あの一言は本当につらかった。
『そんなんだったら精神科に行きな!』
そう怒鳴られたときは、本気で死のうと思ったし、実際リストカットをしたこともあった。
まぁ、実際痛くてかすり傷程度しかできなかったけど。
それから、部屋にナイフを隠して生活するようになった。
本当はいちばん身近な家族には理解してほしかった。
理解じゃなくても、わかろうとしてほしかった。
今でもそうだけど、やっぱり精神疾患に対しての認識が無さ過ぎるのが、生きづらさの原因だと思う。
強い人ばかりじゃない。
今でこそHSPだったり、うつ病だったり、いろいろな言葉が広まりつつあるけれど、理解している人って本当に少ない。
実家にいてもつらい日々だった。
でも一人で生きていけるお金もなかったし、どうすることもできなくてただただ息をしているだけだった気がする。
そんなとき、私を救ってくれた希望があった。
次の仕事へ
都内で一人暮らしをしていた私は、いざ、生活費を稼ぐために次の仕事探しを始める。
とりあえず、おしゃれすることが好きだったし、資格なしでもすぐ働けそうなとこ‥。
某有名アパレル販売員に採用。
先輩も優しく、可愛い洋服もたくさん着られる。
結構洋服代で給料は消えてゆくが‥。
個人売上計算、接客マナー、クレーム対応、備品発注、店内装飾、フェアの準備等‥。
その他諸々大変だったが、業務に慣れてくれば私に会いに来てくれるお客様もいて、これはとても嬉しかった。
後輩もどんどん入ってきて、自分が教える立場になるのも早かった。
比例して、あっという間にサブまでになっていた。
責任が増え、やりがいも感じていた。
何より楽しかったのは、とても優しく、信頼している先輩と、ここまで1年以上一緒にやってきたからだ。
だが、知らないうちに心と体のバランスは崩れていたらしい。
後輩ができたとはいえ、レジ締めや開店作業等の責任ある仕事はまだまだ任せられない。
早番遅番のシフト制ではあったが、ほぼ関係なく、朝から晩まで店舗にいることがほとんどで、朝は通勤ラッシュ、帰りは終電近く‥なんてことは少なくなかった。
店長である先輩となんとか頑張ってお店を回していた。
そんな中、後輩はどんどん辞めていく‥。
また新人さんが入ってくる、教える‥。
そんな繰り返し‥。
個人売上も作らなければいけない。
先輩の前で号泣したこともある。
悔しかった。
でも、やっぱり心が苦しくなって、勇気を出して精神科へ。
抑うつ、不安状態と診断された。
ここから1ヶ月の休職期間に入る。
先輩には本当にお世話になっていたし、申し訳なさでいっぱいだった。
1ヶ月後‥。
甘くみていた‥。
1ヶ月で回復などするわけがないのだ。
サロンを辞めたときからのストレスも積み重なっていたのだと思う。
今ならわかるが、この当時の私はうつに対しての知識もなかったし、若かったこともあり、気合と体力でなんとか乗り切れると勘違いしていたのだ。
これ以上休職も苦しいと思い、本当に悔しかったが、退職を決意。
ちなみに、サロンのアシスタントは約10ヶ月。
アパレル販売員は約1年5ヶ月程だっただろうか‥。
きっと世の中には、もっと激務で働いている人はいるだろうと思う。
私が甘いのだと何度も自分を責めていた。
この当時、近くに兄が住んでいたこともあり、傷病手当金を受けながら、兄のところにお世話になることになった。
兄は彼女と一緒に住んでおり、彼女も快く受け入れてくれた。
今考えれば迷惑だったろうなぁ‥。
当時お付き合いしていた彼がいたので、いくらか心の支えになっていたのだと思う。
だが、やはり、私も若かったし、うつに対して知識もなかった私たちはお互いだんだんうまくいかなくなり、3ヶ月程で別れてしまった。
支えてくれると言ってくれたけれど、自分のことで、本当に精一杯だったのだ。
少しして、母から電話があった。
『実家に戻っておいで』と。
ゆっくり休養するのに、いい機会だと思った。
新生活のはじまり
仕事のストレス、HSP気質、元々人見知りで1人の時間は絶対必要な私。
そんな私はついに脳みそがパンクしたらしい。
現在、自宅療養中で、できる限りの家事をこなす毎日。
まぁ、実家だからできていることなので、両親には本当に感謝しかない。
とりあえず、気持ちの整理も兼ねて、これまで私が体験してきたことを少しずつ綴っていくことにする。
社会人になりたての頃、サロンのアシスタントをしていた私。
朝から練習、昼は雑務やアシスタント、夜は終電まで練習、帰宅後は毎日レポート書きがあり、寝るのは3時4時は当たり前。
昼はご飯を食べる時間などもちろんなく、裏に入ったときに人目を盗むようにひと口から揚げかチョコを口に含みながら洗い物をし、出るときにグレープフルーツジュースをひと口飲み込む。
土日は当然忙しく、グレープフルーツジュースを飲む暇さえなかった。
朝の通勤ラッシュなど、田舎育ちの私には生まれて初めての体験である。
専門学生のときは、寮生活だったので、そんな経験は0だ。
これもストレスである。
序の口である。
職場には先輩より先に着いて待っているというのは、なんとなく暗黙のルールのように思えた。
新人の私はお店の鍵を持たせてもらえていなかったので、致し方ない。
厳しい世界なのはわかっていたし、将来の夢や希望もあった私は、なんとかついて行こうと毎日必死だった。
だが、少しずつ、ある先輩からのあたりが強くなり始めた。
私のペースが遅いのが悪いのだ。
頑張らねば。
定休日にはモデルハントと言って、施術のモデルさんを探しにも行かねばならないのだ。
違う先輩だが、わざわざ休日にモデルハントに付き合ってくれるというのだ。
とてもありがたい。
頑張らねば。
その当時、睡眠時間は2時間。
3時間寝られればいい方であった。
シャンプー中、こっくり行きそうなときなど常である。
お客様、申し訳ございません。
でも、手を抜いたことは1度だってございません。
ほんの少し余裕ができた頃、実家から愛犬たちを連れて、両親がわざわざ都内まで会いに来てくれた。
そのとき、母は言った。
『ちゃんと食べてるの?なんだかやつれたんじゃない?』
そのとき初めて、そうなのか?と思い、体重計を購入。
専門学生の頃に実家で計ったときから、ほんの2〜3ヶ月で5kg減少していたのだ。
身長も小さく、おそらく標準くらいの体重であろう私が、少し見ない間に母がやつれたと言うほどだ。
その頃からだろうか。
体調に異変が現れ始めた。
当然といえば、当然である。
内科で血液検査をした。
少し甲状腺に気を付けるように、とのこと。
手首が痛かったこともあり、体も痛く、だるかったので、整形外科にも行った。
大きな異常はなし、とのこと。
だが、お世話になっている先輩も、可愛がってくれる先輩もいる。
頑張らねば。
なんとか、なんとか‥。
しばらくして、閉店後、優しい店長に食事に行こうと誘っていただき、話を聞いてくれた。
だが、私の中の答えは決まっていた。
何度か話し合いをさせていただいたが、手首と腰の痛みは続き、精神的にもきつかったのである。
早く次の仕事も探さなければいけなかったし、そもそもお金がないと生活できないし‥。
そこから退職までは早かった。
朝起き上がるのもつらくて、お休みをいただいたり、シャンプーくらいしかまともにできないのに先輩方がカバーしてくださったり‥。
本当に感謝しかなかった。
ただ、このままでは壊れることはなんとなく感じていたし、思うように業務ができない苛立ちもあった。
もうこれ以上いると迷惑が掛かると思い、退職することに決めた。
早速次の仕事を探さねば。